昭和四十九年十一月二十七日 朝の御理解
御理解第四節 「此方金光大神あって、天地金乃神のおかげを受けられるようになった。 此方金光大神あって、神は世に出たのである。神からも氏子からも両方からの恩人は、 此方金光大神である。金光大神の言うことにそむかぬよう、よく守って信心せよ。まさ かの折には、天地金乃神と言うにおよぱぬ。金光大神、助けてくれと言えば、おかげを 授けてやる」
確かに天地金乃神様が仰せられております様に、教祖様は、天地金乃神様もやはり恩人と言われる。日々お取次を頂いておかげを受けておる私達は、本当にもし此の世に、教祖金光大神この世に在はさなかったら、今日の私はない。これはまあ私の場合ですが、もし金光大神がおられなかったら、今日の大坪も合楽もないんだと、いうほどしのことでありますから、確かに両方からの恩人は、此方金光大神という訳ですね。皆さんの場合もそれが言えれるですね。
そこで私は、今日の御理解の一番大事なところは、金光大神の言うことをよく守って、信心せよというところだと思うのです。
ところが、教祖様が教えて下さる。お言葉というのは非常に、深くて広くてまあいわば難しいのです。如何に平易な言葉で、その言葉だけならみやすいのですけど、その言葉に含まれている、内容というものは、もう限りない深さを持っているものです。
ですから、それを例えば、咀嚼(そしゃく)することが出来ずに、おかげを受けられんでおる人達が沢山あろうと思います。
教祖様の、永年金光様の御信心を頂いておるけれども、その教えが余りにも難しいので、それを噛み砕ききらんでおる。咀嚼しきらんでおる。だからおかげが頂けないのである。合楽の皆さんがおかげを頂いておるのはです。神様のそのお心というか、金光大神が下さったことを、いうならば噛んで含める様に教えて下さるから、それがわかるところに、合楽の御理解の値打ちがあるのです。
噛み砕き切らんでおる、それを噛み砕く様にして、皆さんに聞いて頂いておる。此処はこういうことなんだと、誰でもわかる。だからそれを守る人達がおかげを受けるということは、当たり前の事です。
例えば、この方の道は、傘一本で開ける道、たったそれだけの教えですけれど、いと簡単に傘一本、なら傘一本ありゃ開ける道という意味がわからん。そこでなら此処で、傘一本ということは、例えば一本の傘を持っておれば、降ろうが照ろうが、降る場合ああ天気が悪うなって来た、降りだんせんだろうかと、傘を持っておるから、不安でもない心配でもない。不安でもない心配でもないその心がおかげを頂くのだ。
雨が例えば降って来ても、おかげで一本の傘を持っておるから濡れんで済むのだ。という様なことを此処では信心によって、お互いが頂くところの安心というか、安心の心を開かせて頂くというほどしに実はあの傘一本ということは難しい事だ。
だらか安心のおかげを頂くためには、どういう信心させて頂いたらよいかということを次に頂くわけです。それにはね、天地日月の心になること肝要だと仰せられることになる。そういう安心のおかげを頂くことのためにはね、信心させて頂くものは、天地日月の心になる。そんなら天地日月の心となるというのはどういう事かと。
天の心とは、限りなく美しい与えて与えて止まない心だと。ここでは説明して頂く訳です。あヽ自分の心の汚さ、見苦しさ、これは本気で自分が美しくならねばならないということになるのです。
地の心とは、それこそ受けて受けて受けぬく心だ。どういう様な事があっても、それを黙って受けて受けて受けぬく心なのだ。それが地の心なのだ。そこで信心辛抱させてもらうて、ぐっと自分の心一つに受け止めさせて頂く様な、心の状態にならなければならないのだ。
日月の心とは、もう限りなく実意丁寧神信心をすることだ。日月程に狂いのない、日月程正確無比な働きをしてくれるものはない。それを手本にして、日々の信心生活をして行けという風に、その気になれば出来れる様にです、噛んで含める様に教えて下さるのだ。 金光大神のいうことに背かぬ様に、いうことに背かぬ様にしたいと思う、頂こうとしても固くて食べられない、わからない。それをここでは、噛んで含める様に親が小さい乳飲み子にものを与えるときは、それこそ自分の口に噛んで、柔らかにしてから口移しに食べさせる様にして、ここでは頂いておることが値打ちですけれど、ならそれを守らなかったら又それは同じ事なんです。どんなに噛んで含める様に頂いても、只分かった、とも詳しうなった、金光様の信心が、巧者になったというだけではおかげにならん。金光大神の言う事に背かぬ様にと、いうことにですおかげが頂かれる。
昨日私、それを本当に痛感したんですけれども、成るほど神様がこういうふうな表現、神の智恵をもって説明して下さるから、いくら分からんもんでん分かるなあと思うた。二、三のお取次さして頂いた実例をね、聞いて頂こうと思うです。
これはもう十何年も前のことです。或る方が、息子さんが結婚のことでお願いに見えた。自分のところの店に勤めておる人をもらうといわれる。ところがこんなことは初めて、私も、はじめてでしたけれども、この方はもう絶対いけないよという事じゃった。
ところが息子さんがどうでもそれをもらわにゃならんというて、もろうて子供が二人も出来られたのに、とうとう、何回も出たり入ったりしよりましたけれども、とうとう最後には別れてしまいました。
そこで主人になる方もまだ若いし、あともらわんならんというので、後をこの頃からもらわれました。そしてすぐ妊娠のおかげを頂いたところが、その頃から奥さんの体がくずれて来た。
昨日も里のお母さんと一緒に、参って来ましたが、とにかく血を吐く、子宮筋腫という病気と、それでどうぞおかげを頂きます様に、又病院にもやらして頂きますからと、いうて、申しますから、病院に行くなら行く様にお願いもしましょう。
折角赤ちゃんをお腹に恵まれたのですから、安産のおかげも頂かねばいけません。けれどもね、医者にも行かんで済むおかげが頂かれる。それからお話も段々頂く様になりました。そして実はね、こういうあちらに縁につかせて頂いてたときからですけれども、こういう悩みがあるというて、その悩みを話されるんです。
というのは前の嫁さんの、道具がいっぱいある訳です。箪笥もありゃ、いろいろの道具もあるわけですね。主人に前の奥さんの道具やらあってはね、私がどうも気分が悪い。これはまあ女性、男性に限らんですけれども、愛しておる人から、自分一人を愛してもらいたい。自分もまた彼を独占愛とでも申しましょうか、自分一人のものにしたいという、そういう心理状態だと思うんです。
いくら言うても主人がそれを片付けてくれようとしません。もうそれを平気で使われるともう私はおるところの無いように苦しむ。と。だから私が申しました。そんならもう片付けるなり、又は壊すなり焼くなりして、片付けて仕舞うように、私からも言うて上げましょうと、それを片付ける様に、けれども○○さん、それを片付けたり、焼いたり、人にあげたりしただけではね、信心のある者もない者も同じ様になってしまいましょうと。
だから、どうじゃろうか、この箪笥やら小道具やらをです。これを神様の御物と思うたらどうねと、私が言うのです。彼女のではない、神様の御物なんです。だから大事に使わせて頂いたらどうねと、私が。それでもまあだ箪笥があると目障り気障りになるならばです。例えば二人の子供を連れて前の嫁さんが出とりますから、主人にとっては家内はともかくとして、二人の子供は可愛いくない筈はないのだから、その箪笥を見るたびに、別れなさった前の嫁さんの事やら子供達のことを、祈り願うそういう優しい心になってごらん。あんたは今の主人からそれこそ、もう愛するなと言ったって、愛される様なおかげになりますよと私が言ったら、涙をぼろぼろ流すとですよ、親先生はじめて分かりました。
神様の御物、あの人の物と思わず、神様の御物と思うて使わして貰います。箪笥を見るたんびに小道具を見るたんびに、主人がそれを使うたびにです。やっぱり前の嫁さんの事も思うけれども、嫁さんの事じゃない子供さんの事を思うだろう。そんなら前の嫁さんもまた立ち行く様に子供さんは、なおさらおかげ頂く様に、祈らせて頂く事に腹を決めさせて頂けたら、あなたの病気は私が請け合うて、病院に行かんでんよかよ、子宮筋腫も治るよ、血を吐く病気も治るよと私がね、そして安産のおかげもまた請け合う、とどっちがよかね。あんたがよかごとたいと私が申しました。
私も、主人もお父さんもここによく参って来るから、こんど主人が参って来たときには、もうあの箪笥は壊してしまわんね、又どこにかやってしまわんねと私が言うてやろう、それだけであんたが助かるなら、と言うて申しましたら、本人がそのことを気付かせてもらうて、神様の御物として使わせてもらう気にならせてもらうたら、もう神様が、子宮筋腫も血を吐く病気も、いっぺんに言うことを聞いてくださるんですから、それがまた夫婦仲良う行くおかげが、まあ受けられるというようにです、噛んで含める様に教えて下さるわけです。
昨日は、ここで修行している田中さんの、お父さんの帰幽日でした。お立ち日ですね。それでいろいろ久留米にお供えもの買いに行って、そして四時の御祈念に合わせて、お祭りをして頂きたいという事でございましたから、お祭りさして頂きました。神様にそのことを申し上げさして頂いたときに頂きましたことが、肉の味噌漬けを頂くのです。
肉の味噌付け、神戸が名物ですね。あの肉の味噌漬けというのは、私は知りませんでしたけれども、あれはもう何月何日に詰めたらもう、何月何日に食べなければ駄目だというほどしに微妙に味が変わるんだそうですね。
皆さん例えば、先祖のお祭りをなさるでしょう、お立ち日とか今日は、お道でいう帰幽日などには、お茶の一つも沸かしたり、又ちょっとしたお祭りを頂いたり、式年祭、式年祭にはなおさら御法事をしたり、いうなら、霊のお祭りをするわけですけれども、霊のお祭りはそんなに、そんなに何月何日に死んだら何月何日に、どう供養せんならん、どうお祭りせんならんというほどしに難しいもんです。だから伸ばしたり早うしたり、もしそういう事情によってそういう事があるならばです。もう前々からそのお取次を頂いとかなければ、神様にも御都合があるということです。
同時にです、肉もね、その味噌のおかげで美味しゅうなり、味噌そのものもです、こんどは肉をつけた味噌は大変おいしいですね。味噌も美味しい肉もおいしい、いうなら、霊も助かりゃ、それをお祭りを奉仕した、田中というその娘も助かり、霊も助かる。両方が喜び会えるということです。
はあ本当に、そのことを私も頂いとりましたけども味噌と肉の、肉も美味しゅうなり、味噌そのものも美味しゅうなるというほどしの事だということを改めて、また分からせて頂いた。
霊様でそのことをお願いさして頂きよりましたら、昔火ばしといいます。昔くどのときには、長い火をつまむ火ばしの上の方は丸い輪で繋いでありましょうね、はずれんごと、上の方は丸い輪で、それがはずれておったのをこうやってはめるところを頂いた。
親の霊の心と娘の心が、傍にあるごとあったばってん輪をもって結ばれてはいなかった。離れておった。そげなことしとるといつの間にか、子供さんがのうならけちしまう、かてっぽう、片一方ではどうにも出来ない。
今日のお祭りは、そういう微妙な、神様の働きと、霊の喜びをそういう表現で教えて頂いた。もう本当にいくらかけて霊のお祭りをさせて頂いても、させて頂いてよかったと、それこそ自分も喜べれる。霊様も尚更喜んで下さる様な、しかも輪と輪でこう結ばしてもらう、その火ばしのようにです、おかげを頂いたのが、昨日のお祭りであったと、これは分からせて頂いたから、この次の霊のお祭りも、だから楽しうなって来る。いうなら信心が霊も助かれば自分も助かられる道をです、尚いよいよ大事にしたいという心が、いやが上にも起こってくるじゃないですか。
これは夕べ遅く、日田の綾部さんから電話が掛かってきた。あちらの女中さんの、ここ四、五日出て来んと思いよった。ところが、もう真つ青になって見えた。そして働いとる金をもらいに来なさった。そしていよいよ奥さん、別れるごとしました主人と、もうとにかくね、テレビも来月一ちょ払い込むと全部払うてしまうテレビやら、毛布やらごろもの皆外に出しちから、それを焼いて仕舞いなさった。そして踏んだり蹴ったりして、あばら骨が折れとるじゃろう、どんこんされんちいうてその見えた。
そんな別れるのどうのと言うてから、とにかく私がお参りしよる金光様にお尋ねして上げるからと言うて電話が掛かって来た。そしたら辞引の辞という字を頂いた。辞というのは舌という字を書いて辛いという字が書いてあるですね。それを頂いたが、今その人が言っていることは、辛いことだけど、苑という字は広辞苑という大きな字引がありましょう、その辞苑の苑の字を頂くということは、自然に辛かろうけれども、口でその人がいう様に辛かろうけれども辛抱させて頂くと、又おかげになるという意味のことを頂くから、そういわれて話して上げられるけれども、どうしても合点が行かん。三十分ばかりしたら、又電話が掛かってきました。今から本人ば連れてお参りしますけん、余り遅くなりませんからお願い致しますということであった。
待つとったら暫くしましたら見えられました。それに田中さんも一緒にお参りしたいということで、三人、五人、六人であちらの息子さんの運転で参って来ました。
しかしまあ有り難い合楽ちゅうところは、どうしてこげん有り難いところじゃろうか、というて皆がその言われるのです。こりゃ私がここで、お取次さして頂くときにはもう、本当に顔は真っ青になって、ひきつった様な顔でした。
御祈念をさして頂いて、それからそこの信者控室の部屋を暖めとりましたら、あちらへ移らして頂いて、まあ私がいろいろ話をさせて頂く内にです。一寸不思議なこっちゃある。おはなしを頂きよる内に、ここの立たれんごと痛かったとがようなったという。心が砕けてやわらかくなって来たわけです。
私が御神前で御祈念さして頂きよりましたら、雪うさぎを頂くんですよ、雪でこう造るでしょう兎を、そしてその目、鼻がですね、丁度あの狆(ちん)という犬がおるでしょう、ぐじゃぐじゃとした奴が、その狆の顔ごともう、雪兎は造っとるけれどもう、目鼻口をもうぐちゃぐちゃとしてつけてあるところを頂いた。
だからいうならば、見ること言うこと、聞くことが、あんまりジカジカとした見方をするからだと、だから気安いこと、目と目をもちっと離らかす。鼻も丁度適当なところにつける。口も丁度適当なところにつける。そうするとね、いうならそのぐちゃぐちゃとしたその顔の雪兎が可愛らしい事になって来る。
だからあんたが叩かれた。あんたが毎日折檻される様に苛められる。もう子供は三年生と一年生の立派な、可愛らしい子供がおるのです。だから喧嘩するときには、学校にも行ききらんで、お母さんがいつ出て行くじゃろうか思うて、放れきらんげなもん。その子供も一緒に連れて来ました。
だからこういう子供がおるから辛抱しなさいとは、私は言わん。子供のために親が犠牲になるなんて、それは嘘だと。じゃない自分自身の物の見方考え方が、ごちゃごちゃとした見方をしておる。短気な見方をしておるからいけないのだ。そして痛い思いをしたり、肋骨を折られたりしたのは、誰かというと、あなたじゃないか。苦しいのはあなたじゃろうもん、してみると苦しいのはあなた。だからです、その苦しみから逃れるおかげを頂かんならんのは、あなたであって主人じゃないと。主人が悪いからとこういうけれども、嫁御が悪いからというけれども、息子がどうのというけれども、苦しみよるそのものがです、いうならば神様が苦しみを与えてござるとですよ。
あれが叩いたけん苦しいとじゃない、叩かれんならんものがあるのだと、私は毎日毎日息子が言うことを聞かんけん、苦労しよりますとこういう。苦労しよるとは息子じゃなかもん、そのお母さんが苦労しよるとじゃもん。例えていうならば。苦労しよるどうした訳で、こげん苦労せにゃならんかということが分かったら、あんたが何事でも物の見方考え方がごちゃごちゃとした見方をするからだというたら。本当にそりゃもう、人相やらあげん変わるもんじゃろうかという位変わりました。
丁度昨日は、土居の共励会でしたから、帰って来るのを待っとりましたから時間をゆっくり、それこそゆっくりお話しが出来ましてね。もう帰りがけにはもう、そういうてもう里に帰られるというのが、とにかく自分の物の見方、考え方を変えて、もう一辺帰らせて頂いて、いつごろだん円満になるじゃろうかと。さあそりゃ知らんばってん、来年は兎の年ちゅうじゃろうが、だから来年の正月頃だん違わん具合ようなるでしょうと私が、そんならそれまでいっちょ辛抱しましょうというて昨日帰りました。
例えば夫婦仲良うせなん仲良うせなんというただけでは、もう誰がいうても聞かんのです。けどそれこそ教祖のお心、それこそ教祖のお言葉を噛んで含める様にそれこそ頂くからです。例えば皆、昨日私が三人のお取次をさして頂いた。
嫁さんが、前の嫁さんの道具を見てから、腹が立つというその人に対する。また田中さんのお父さんの帰幽祭のこと。又は夕べおそうにお取次さして頂いたもう出るの戻るのというておるその人のお取次をさして頂いたが、これだけ噛んで含める様に頂いて、それを実行しないならば、それはもう仕方のないこと。
けれども私が、ここでお取次さして頂いて、あヽおかげ頂いたなあ、それをいよいよ実行する気になったなと思うたときにです。私も有り難いが、本人自身がもっと助かっとったいうこと。泣き泣き帰るのじゃなくて本当に、そういうひどい仕打ちをした主人にでも、お詫びをする気持ちになったということです。
そういう様に金光大神のいうことに、背かぬ様にというところが一番大事でしょうけれども、金光大神の言葉は余りにも難しくて、広くて深い、だから守ろうにも守り様のないほどしに、難しいところを、なら合楽での、信心の素晴らしさ有り難さというのは、一人一人にそこんところを噛んで含める様に頂かせてもらうからです。
誰でも分かる、誰でも行じようと思えば行じられる。金光大神の言うことを守られれるみ教えを頂かしてもらうことがです、そして金光大神助けて下さいというのですから、皆もおかげを頂くということになります。
金光大神のいうことに背かぬ様にというところが、この御理解の一番大事なところ、そこを噛んで含める様に、御理解頂かしてもらうということが、有り難いということです。皆さんが、本当に分からせてもらうて、只聞いて分かったでなくて、それを行の上に生活の上に、現して行こうということになってはじめて、金光大神助けてくれと、いえば天地金乃神というに及ばん、助けて頂ける道が開けてくるのです。
金光大神の言われること親先生の言われることは全然、聞きもせず守りもせずして、おかげが頂かれるということはないですね。どうぞ。